昭和44年09月06日 朝の御理解
御神訓(信心の心得)一 「天が下に他人ということはなきものぞ」。
一 「 かげとひなたの心を持つなよ。」
確かに天が下に他人という事はないと。一子同人神の氏子としての、親神様の目から御覧になれば皆んな、その同胞であり、いわゆる兄弟であるという事になる訳ですね。けれども私共人間の立場で考えますと親子ではない。血の継がりのある兄弟ではない。それを私共は他人と、こう言うわけです。けれども信心の上から言うと、他人という事はないと、こう言うておられますけれども。
まず私共が実感しておる親子、なるほど汚い物は血だなと言った様な事を言います、その血の継がり。ね、ですからこの血の継がりを間違いなしに親子の縁をです、縁として血の継がりとしての頂き方という物が先ず出来ておらずしておいて、いわば他人と思うておる者を他人ではないなんては、いよいよ思えないと思うんですよね。親子、兄弟、または夫婦でも、まあ良いでしょう。
親が子を信じない子が親を信じない。兄弟同士争い合っておると。形だけの夫婦であると。これでいかに天が下に他人と言う様なき事ぞと言うてから、分かって是では本当に分かって行く筈はない。先ず手元の所からと言った様な事を申しますけれども、先ずそこのところからですね、おかげを頂いて行きたいとこう思う。夫婦は夫婦らしゅう言うならば、赤裸々な継がりを持っての夫婦でなからなければならぬ。
それに主人に隠し事をしておる、家内に隠し事をしておるでは、本当の夫婦のものが生まれて来るはずはありませんよね。親でも子でも兄弟でも同じ。そこで次にそのかげとひなたの心を持つなよと仰る。裏表がある。子供の前だけでは、言うなら人の前だけでは、なるほど立派なお父さんであったり、主人であったり兄であったり、妹であったりという事でしょうけれども。
そこに陰日なたがある所からです、親子でも兄弟でもいわば本当のらしい親子、らしい兄弟らしい夫婦と言った様な、家庭構成すらが本当に出来ないのじゃないだろうかとこう思う。親子の中でも、本当に親子の情という物が、通い合ってこうやはり育って行くんですよ。ところが何かの調子に、親子でも嫌やぁになったり、冷たあくなったり溝が出けたりと、言った様な事が御座いましょう。
夫婦はなおさらね兄弟でも同じこと。そこんところをですね他人という事ではないのですから、私はせめてそういういわゆる肉親と申します。肉親の上においてだけぐらい、影とひなたのない心で過ごしたいなあと思います。またそういう過ごせれる雰囲気を、家庭の中に作りたいなあと。親にならどんな事でも言えれる。兄弟ならば夫婦ならばと。何のわだかまりもない。
それで私は本当のいわゆる肉親という事が言えるのではないかと思うのです。そこでまあ是は信心の上で頂きますと、私共といや私と皆さんと言った様な事にもなって来るのです。なるほど信心を止めれば赤の他人。もう親先生でも何でもない、大坪さんである。信心を頂いておる限り、やはり私は皆さんの親先生である。やはり私の信心を通して助かって頂かなければならない、いわゆる信者氏子である。
ですからどうしてもその、親先生と信者の中と言うのがです、他人という事はなきものぞと仰る、それは世界中のどこの人間、人達とでもそうなのでありますけれどもです。まして肉親まして兄弟夫婦というものの上にも、陰日なたがあっては本当なものが生まれない様にです。ここでいわば親子の関係にある、私と皆さんという間柄と言う様な物もです。やはり密なるもの。近親感と申しますか。そう言う様な物が、私は育って来なければいけないと思うんです。
昨夜壮年会でございましたが。私最後の所少し参加させて頂いて、お話聞かせて貰ったんですけれども。中に石井清さんがこの様な事を言っておりますですね。石井清さんのお姉さんがおります。元宮崎におった頃は、金光様の御信心を熱心に、一家中でしておったけれども、どうも金光様の信心、先生に不信の念が湧いてきた。どうも信じられなくなってきた。頭の良い人ですからそれから色々宗教をあさって結局キリスト教。
もうカトリック教の洗礼を受けた。もう熱心な日本でも何人でもないという位に何ですか。あちらにも天樂というのがあるらしいんですね、キリスト教にも。その天楽の本を何冊も現したという位に熱心になんです。一遍椛目に見えられました時なんかも、私にもうそれこそもう諄諄として、その愛の心を説かれるんですよね。私黙って聞いておりましたけれども、まあ最後に一言話させて頂きましたら、まあ言う事ないという風に思われたのでしょうか、すぐそれから帰られましたけれども。
とにかく頭も良い人ですし、そしてもうその親達が、兄弟達が金光様の信心しとるのが馬鹿らしいごたった。所がです今度今どっか神戸かどっかにおられますが。今度ある事情でこちらへ帰ってこられて、初めて赤裸々にです自分の今苦しい事を訴えられた。清さんに。もう自分はもう死ぬるより他に、道はなかごたる所まで追い込まれておる。子供達も出来がいい頭がいい。それぞれもう結婚もした。
今大体言うならば言うとこはなかろうごと思うのに、信仰の上にももうカトリックが悪いのじゃないけれども、もうカトリックじゃ助からん。家庭色んな関係においてです。もう死ぬるよりは他になかちゅうごたる所まで、清さん私は今行き詰まっとる。あんたの生き方を教えてくれってこう言うた。というて姉さん私の生き方をね、教える訳にはいかんのだて。習いたいなら私と一時ばかり生活するより他ないち言うたち。
けれども私は姉からもう死ぬる他にはなかと、言う様なですね、訴えを聞いた時にですね、もう初めて姉らしく思うたと言うんですから。私はそれが嬉しかった、その事がお礼を申し上げれたと言うんです。いわゆる本当の姉としての兄弟としての、近親感が生まれたって言うんです。今までは高ぶって、自分達はていどの違う信心しておるように、例えば信心一つの上においてもです。
いろんな人間関係の問題においても、自分の生き方はもう絶対親やら兄弟の言う事を聞かない。それが今度は帰って来て清さんあんたの生き方を教えてくれて。あんたの兄弟達がみな都合よう行きよるというその生き方を教えてくれて。私はもう今は死ぬるか生きるか分からんごたる所へ立たされておるて、と言うてまあ三日間おっておる間にです、その事の話がもうある問題がです、もう実に置いた物を取るように順調に行くち。
清さんとしては、私と生き方の上にそのそれを見せて、見てもらった訳ですよね姉さんに。まあそういう事も有り難いけれども、その姉がねもう赤裸々に自分が死ぬるほどの思いをね、打ち明けてくれて、もうその事はもう本当に嬉しいと思うたち。そして初めて姉らしい近親感を得る事が出けたと言っております。私今日の御理解を頂いてですね、もう兄弟だっていわば他人以上浅ましかです。
お互いに言う事を聞き合わないんですから。はあ清さんの話は素晴らしいと言うて、他人の方が有り難く頂いて来よることを、あんた達の話は間違ってると、こう頭から受け付けなかった。人が赤裸々に自分の悩み苦しみを訴えてです。そしてあんたの生き方を教えてくれと言われた時に、やっぱ俺の前に頭を下げて来たと言った様な物ではなくてですたい。初めて兄弟らしい本当に血の通い合うておる姉として、弟としてのその近親感を感ずる事が出けたと言っておる。
先日29日が敬親会で、お母さんがこちらへ皆来ておりますから、迎えにやって来たんですね自動車で帰ろうとしよったら、久富先生そこの割れ目の所にお金が七百円落ちとった。それで清さん是あんたんとじゃろうち言うてから、その先生がやられたいんやあ僕のじゃないち言うばってん、いんやアンタより外に来とる人はなかけんで、アンタんとがのち言うちからしゃっち言わっしゃるけん、そんなら貰うとこうち七百円貰うたちいう。もう絶対自分のじゃなかち。
もう金もって来とる筈がないちいう訳。けれどもあんたより来た者はなかけんで、これはアンタがつち言うちから、そのやらっしゃったからまあ頂いたとこういう訳です。そして帰りにどっか途中でですね、自動車が止まったガソリンが切れた。それからガソリン屋に行って入れてもろうたら、やっぱちょうど七百円じゃった。私はそれを聞かせて頂きよってですね、今度は私が言うんですよ。
何かあの清さんアンタその話を聞かせて頂いて、そればやる方もやる方ばってん、もろうて行くもんももろうて行く方、自分がつじゃなかつば、そんならもろうて行こち、もらって行ったっち言うんですから。何かそれを聞きよってから、本当に近親感を感ずる訳です、私が。そういうですね、赤裸々なその事という事は、そんなにもその、心と心を結ぶ事の出ける物なんですよ。もう陰とひなた、裏表がない訳です。
赤裸々な表ばっかり裏ばっかり。裏でも覗かせられん所ばハッキリ覗かせて頂いて。そしてやっぱ、久富先生が言いなさった様に、あれは私がつじゃったつじゃろち言いよっとです。私がつじゃったつなら、やっぱ神様が私の為に用意しておって下さったんだろうと、こう言うのである。流石に清さんだと私は思いましたですね、そういうところ。引っかかってないです、全然。
私達が、例えば確かに天が下に他人という事はないという事をです、信心の、いわば理の上から教えて頂けば、本当に皆んなに赤の他人というものはないもんだなあと。しかし分かっただけじゃ何ぁにもならんでしょうが。実感を持ってそれが感じられなければ。ところが、その兄弟でも親子でも、夫婦でも。そのお互いに信じ、信じられないといったようなものが生まれて、家庭の和があろうはずはありません。
そこに私は一番大事なことは、陰とひなたの心を持つという事が、そこに溝を作ったり、何とはなしに家のお母さんは信用されんとか。それは親だからですよ。誰よりも大事なことは大事なんです、子供から見れば。けれどもどうも家のお母さんは、もう隠し事ばっかりするとか、しらごつばっかり言うとか。陰日なたが裏表があるとかと思うたら、もう絶対そこからそこからもう親を軽蔑する、親を大事に扱わないわけです。
それよりもですね汚いところが、あるならあるように。そこを赤裸々にくだされてご覧それこそ子供の方が隠してやりたいような気がするんですよ、実際を言うたら。これは親子だけの事じゃありませんよね。陰とひなたの心という事はまだ色々説明もありましょうけれども今日私は。話を聞けば道理を聞けばです、やはり他人というはなき事ぞという事を分かっただけじゃつまらん。それよりか本当に分かっておる、肉親。
本当に分かっておる私と皆さん。私、親先生と言うて、言うて下さるほどしの方であるならばです、本当に私もその人の為に親先生らしくならなきゃならない、貴方がたも親先生と呼ぶに、相応しい、信者にならなければいけないと。親子だからこそ。間違うとった時には怒りもする。撫でさすりもする。そういう私は、ものがなからなければ、いけんのじゃないだろうか。
おごったらそのまま縁が切れるのじゃなかろうか。おごったらとてもすぐお参りを止めるじゃろうといったような、私が皆さんに不安を感じたらおごる事も出来んでしょう。そりゃ間違うとるじゃないの。夕べ久しぶり私は、まあおごった信者があるんです。夕べ御祈念ちょっと30~40分前だった、夜の御祈念の。裏におりましたら、やってきた。具合が悪いから医者に行った。ところが、あんたガンの一歩手前ち言われた。これはあんた、手術せにゃいかんばいち、まあ言われた訳。
そこでその、手術はしたくないから、どうぞおかげを頂かせて下さいと、こう言うからね。もう私が天から怒ったんですよ。そげな事があるもんかて。お医者に行って、お医者が手術すりゃ良かと言われるなら、おかげを頂いて一歩手前におかげを頂いておるのじゃから、どうしてお医者さんの言われる通りにしないかて私が。それが、あんまり厳しかったもんですから、泣き出してしもうた。
本当に、信心でおかげを頂きたいなら、どうして医者に行くか、どうして合楽に来じゃったか。そして助けて頂きたい、おかげ頂きたいと言うなら、私もお取次ぎのしようがあるけれども、医者に行っておいて、医者からこうこう言われて、しかも手術すりゃ良うなる、良うなるおかげを頂けれると、言うならば医者が言いよるのじゃから。そこんところをお願いして、祈って医者にかかったら、それでいいじゃないか。
それがあなた手術をしゆうごとないけん、神様てそげな言い方事じゃでけんて。何年信心しよるかと言うて私は先日の、あの善導寺の久保山のところの親子の事を話したんです。あんな例えばとにかくまあ腔中の病気ですけどまあ重態ですよね。一週間ぐらいご飯を頂かなかったんですから何も。最後にもう飲み物も飲まない様になったんですから。この上の上顎下顎がこう二重に見えるように、こうとにかくもう、大変な様子だったらしいですよ。あんまり熱がある、あるごたるから体温計を使った。
所が一人の子あのもう一人の子供が風呂から上がって来て扱いよる内に、取り落として割ってしまった時にお母さんが思うとる事。はあ是は体温計にどん頼っとっちゃでけんという事に気が付いて、勿論計ろうともしなかった医者のイの字も言わなかった。あんまりひどくなるからお母さんがビックリしてから、是はちょいとお医者にと言われたけれども、そこはまあ頑張り抜かせて頂いて、まあおかげを頂いた話をさせて頂いた。
だから、もう体温計を使うという時には、もうすでに、もうおかしいんだと私言うんです。本当に神様のおかげを頂きたいなら、熱が高っかろう低っかろうがどうあるかち。何々の病気じゃて、何でもいいじゃないか。そこを、陽子さん気がついた、どうして体温計がいるかと神様が言いよりなさると気がつかせて頂いて、おすがりさせて頂いておかげを頂いたよと、こう言うた。
だから今日まいっぺん帰ってから、そこん所が良く分からせて頂いて、手術しゆうごとないけん、どうぞ医者に行かずにおかげを頂かせて下さいじゃなくて。手術をしなかったら本当にガンになった、本当にガンで倒れるかもしれん。けれども「かまん」と言うかままよという心を出させて頂かなければよ。私がお取次ぎはせんはっはっは。そげん厳しゅう申しましたから、まあとにかくまあ腹が大体決まった様であってですね。
とにかく親先生のお取次ぎを頂いておかげ頂きたい。だからもっともっと、私が言おうとしておる所を一つ分かって、そして改めてお取次ぎ願うて来るなら、私がお願いをしようち。また改めてお願いをするよと、まあ言うて帰らせましたんですけれど、その時にまた付け加えました事がです。今日の今朝の昨日の夕べの言葉で。今朝の御理解を頂け。あんたの信心がね例えば。
昨日ので頂くと、神様の方へいつも信心のけいこをしておるという気持ちでおったら、もうお試しと思うから、もうこれは、このお試しに負けちゃならん。医者にどん掛かるだんじゃなかですよね。私はどうぞ皆さん医者に掛って良いとか悪いとかと言ってるのじゃないですよ。ね。自分の心が神様に向かうておる時にです、もし腹がせこうが、頭が痛かろうが、さあお試しを受けておるという。
昨日の御理解でスッキリ頂くならばですね。それはお試しでありその答えが百点満点とるか、八十点かそれは分からんけれど。とにかく落第点とっちゃならんと言った様な姿勢が、そこから自ずと生まれて来るんだと。例えばんならそれのもう一つ以下の、お気付けを頂きよるとも気がついてない。自分な何時もこんな病気をして、ふが悪かというぐらいな思い方しか出けていない。
お気付けと思やあシャンとする、けれどもシャンともしとらん。医者の方にどん先に行っとる。そしていよいよひどく言われてから神様とこう言いよる。だがそれでも良いのだと。だから改めて神様にお願いをして、医者にかかって薬を飲んで、手術をしておかげを頂けとこう言うのである。けれども手術はしゆうごとないからお願いします、そんな事じゃ出来んち私が。
まあ、これは今日の御理解とはですよ、よほど縁が遠いですけれども、そう私はその人に言えれる事が有り難いと思うたんです。その人だから言えたんです私が。この人はやっぱ長年信心させて頂いとりますけん、いよいよの時には親先生がおって頂くから、親先生にお願いすればという、それを芯からのものを持ってる訳です。いわゆるその親と子との継がりというものが感じられるから、それが言えれるのです。
ですからお取次ぎさせて頂くでも、私と皆さんの中にです、もういわば信心させてこの、信心があるその皆んなとで、も赤の他人じゃないという位ですから、ましてや縁を頂いて合楽の教会に御縁を頂いたら、親先生と私共との継がりがこの様にも密なるものであるという事の為に、赤裸々でなからなければいけないという事。赤裸々なお取次ぎを頂いて、赤裸々におすがりさせてもらうと言う様な信心。
そこから成程他人じゃないという情感も湧いて来るし、教導も受ける事が出来るし、おかげも受けることが出来る。それを今日はあの清さんの例を持って申しましたですよね。私はまして、その家庭のいわゆる肉親の問題。その肉親ですらが他人よりも浅ましかと言った様な事はありはしないか。縁あって夫婦になっておりながら、形だけの夫婦であると言った様な事がありゃせんか。それは家内に隠し事をしておる、主人に隠し事をしておる。陰とひなたの心を持っておるからそういう事になっておるのだ。
いう事をです分からせてもらう。愈々陰とひなたのない心を持ってね、信心をさせて頂き、愈々親として、子としての情感が通うと言うか。本当に親子らしい所謂肉親らしいおかげを頂かせて頂いて。そこからです私は、私共の周囲の赤の他人である縁に任せてですね、そういう赤の他人ではないという事が、実感として分からせて貰い。その一つの事が祈れたり願えたり出来れる、私達になって行かなきゃならん。
まず私の手元のところから。まず私自身が。家内に信用されておるだろうか、子供に信用されておるであろうかと。兄弟は信用しておるだろうかと。まず本当に信用される私にならせて頂くと言う所からね、本当の肉親の感。愈々ね成程血の継がりというものを感じられる信心が、いわゆる本当の意味での家庭の輪と言った様なものはそう言う所からしか、生まれて来んのではないかという風に思うのですよね、
どうぞ。